古流の発生
古流の「生花」は江戸時代に生まれた様式です。それ以前の室町時代から江戸時代初期までは「立花」といって、仏前供花として発達した様式がありました。「立花」は天皇をはじめ公家、貴族、僧侶の間で盛んに行われ、覚永のころには民衆の間にも普及していきました。一方、茶の湯の流行とともに茶花もいけられて、いけばなに影響を与えました。
仏前供花や書院の床の飾りとして発達した「立花」が庶民の間に広がると、それが庶民の床の飾りとしては大げさすぎてふさわしくなく、茶花はあまりにも簡素で床の飾りにはわびしすぎると、時代の要求に合ったものとして考え出されたのが「生花」でした。
古流の起こり
「古流」という名が初めて文字として登場するのは、明和三年(1766)版の『生花評判当世垣のぞき』の「華家の名目」の項です。そこに「当時流布の流儀は千家古流、遠州流、庸軒流、入江流、但千流、源氏流、正風流、千家我流、唯の古流といへるなど有……」とあり、生花の隆盛と、ともにいくつもの流派が生まれつつあったことが知られます。唯の古流といったのは、たとえば、千家古流などのように、古流の前に名称をつけたものと、古流とだけ称したものとを区別するためです。
また、その三年後に刊行された『瓶花群載』には、その巻頭に「古流」として一作、今井一志軒宗普による松竹梅の作品図が掲載されています。この書は当時の生花界の新興流派の初代家元の作品を多く集めたものでした。このことより一志軒宗普は「古流の祖」とされています。ここに残された竹二重花入れに松竹梅をいけた作品図はその後伝承されている生花に比べ大胆ですが、三才や空間の分かち方はすでに「生花」の型を感じさせるものになっています。
『瓶花群載』
二世・安藤凉宇は本郷湯島天神下に住み、松應斎凉宇と号しました。「桜之雫」によれば、「宗普時代の門人中に、流名を求めしもの三人あり、一人は梨雲斎宏道と称し宏道流と号し、一人は下谷日蓮常林寺の住憎本松斎一得と号し遠州流と名附け、今一人は本郷妻恋のほとりにて小笠原佐渡守の隠居に笠翁斎乱鳥とて濁流と名附けぬ、ここに今一人は古流の奥儀を得て安藤涼手先生は、一志軒今井先生の跡をつぎ古流二代目の師となりぬ」とあり、この記載より古流二代目を安藤凉宇としています。凉宇は加賀藩前田家の庇護を受け、その藩中の者たちを門下とし、古流の地盤を固めました。このことから、後に北陸系(金沢)と関東系(東京)にわかれました。
残念ながら作品図は一枚も残っていません。毎年五月に当会がその墓碑のある浄念寺で凉宇忌法要をおこなっています。
三世・関本理遊は年少の頃より凉宇に学び、『古流生花百瓶図』『古流生花門中百瓶図』『古流生花門中百五十瓶図』『古流生花再撰百瓶図』など、多くの作品集を出版し古流生花の基礎を固め「古流中興の祖」といわれています。その優美な花型は現在もそれを範とし、受け継がれています。現在に於いても古流の門人が理遊の号の「理」の字をその名に付していることからも理遊の功績が大きく評価されていることがうかがい知ることができます。
四世・関本理恩は大阪の堺に生まれ、国学者鈴木重胤に学び、和歌、茶道、書道にも通じました。華道は未生流家元二世上田広甫について未生流の師範代までつとめましたが、関本家の養子になり、理遊の後を継ぎました。その時理恩はすでに43オでしたが、未生流で得た技能をさらに古流において伸展させ理論的な生花の体系を形づくったといわれています。
理恩は「古流生花松乃志津玖」を出版、また多くの作品図を出版する計画を立て草稿を準備しながら、やがて明治維新の動乱期に際してその機会を失い、今日でもそのことが惜しまれています。しかし、「古流定書」を書いて許状の組織を明確にしたり、「伝書」を改正して草木の出生にもとづく花姿を確立する一方、変化自在の手法を奨励したりもしました。
しかし、幕末から明治の激変の時代の中、特に東京に於いて古典芸能である古流生花は一時衰退の途をたどります。
明治維新といけばな
明治維新を迎えたいけばな界は、文明開化の夜明けの光とはうらはらに、暗黒時代を送らなければなりませんでした。世を挙げての旧弊打破と西洋化によって、いけばなは伝統的であるゆえに旧弊なものとして排斥されました。加藤祐一著「文明開化」(明治七年(一八七四))に「ポキポキとした梅でも、しなしなとした柳でも、活花にすると同じやうな形で」いける不自然さが旧弊なものとして扱われ、「投入れというやうな事なれば、開化の趣味にかなふ」ものだと考えられました。それまでに堕落していたいけばな界は、当時輸入されてきた洋花をとり上げて、新しい時代に即したいけばなを生み出す活気もなく、はげしい時流に抗しながら、旧態依然とした伝統形式にしがみついていました。しかも、それまでいけばなのスポンサーであった寺院も、明治政府の排仏棄釈によって衰退し、幕府や藩に依存していたいけばなは幕藩体制の崩壊とともに経済的に大きな打撃を受けました。 生花の師匠たちは、生活が比較的安定した地方へ流れていったり、他に本業を持つことによって生活の道を求めました。
五世・近藤理清は前田家の家臣で、江戸勤務の折に理遊・理恩を知り、古流を修得しました。先代理恩が病床に伏せる中、総てを託され北陸金沢の地に古流生花を伝えることになります。加賀の門弟を統一して、金沢を中心に北陸の古流を確立しましたが、東京から速く離れている金沢は、城下町という土地柄から能楽、茶道など伝統的な芸事が盛んで、極端な欧化主義の影響が及ばなかったと考えられます。
古流の復活へ
近藤理清の門人、広岡理徳と石側理泉は金沢の地にとどまり、初代千羽理芳と中村理禎は、機を見て上京し、古流復興の夢を実現しました。
六世・初代千羽理芳は、弘化二年(一八四五)金沢三社町に生まれ、名を伝三と言いました。幼少より祖父千羽芳州に華道を学び、15才のときに上京し、上野不忍弁天堂で十瓶いけの個展を開いて注目を浴びました。その後も古流を再び東京の地に戻すため、花展開催や『古流生花松廼影』『古流生花松乃飛志保』『古流生花新撰百瓶図』など出版においても活発に活動します。
『初代 千羽理芳』
明治25年、千羽理芳の門下玉川理調、戸川理正、また関東系の松藤斎池田理勉など古流の復活を念願にしていた人々が本郷にある蒟蒻閻魔堂に集まり、「蒟蒻閻魔花の会」を結成、次いで松線斎松井理玉、松盛斎山本理吟が参加し「鶯友会」が結成、この2つの会が明治31年に岩村桃谷の斡旋により合流して「花友会(かゆうかい)」が発足しました。
花友会の発足
「花友会」は当時の東京では唯一のいけばな団体でした。「花友会」の発会式は上野不忍池畔の無極亭で行われ、ここに北陸と関東に分散していた古流人たちが団結し、研究会や花展を開催するなど活発な活動をつづけました。「花友会」は三家元〈松藤斎池田理勉・理英(先代)、松應斎千羽理君(先々代)、松盛斎山本理吟〉を組織の中心として運営され、昭和十六年(一九四一)九月二十三日、その後の古流団体および個人をさらに合流した「全国華道古流協会」(現古流協会)の結成に当たり、発展的に解散しました。
古流松應会の設立
千羽理芳は、明治30年(1897)3月3日、52才の生涯を閉じましたが、没後その妻理君(先々代)が継ぎ、明治45年、「古流松應会」を結成しました。
「明治四十五年七月十五日、戸川、玉川、梶川、佐藤、早出、池上、島田の数氏上野不忍池畔家元千羽家に会合、故理芳先生門下並に同社中より出し、同好者連月初旬七日千羽家に集合して、生花研究旁懇親協和するを以て其の主旨とすることに定め、合名を松應会と名称して玄に本会の成立を遂ぐ。」
以来、古流松應会は、2001年に90周年を迎え、現在に至っております。
1912年 | 明治45年 | 7月15日 | 梶川、島田、戸川数氏が上野不忍池畔の家元千羽家に会合。 理芳(松應斎六世)門下を中心に生花研究、及び懇親協和を主旨として古流松應会が発足する。 |
1915年 | 大正4年 | 明治25年に松應斎・松藤斎・松盛斎の三家によって組織された花友会が、会長・役員などの制度を改定。 | |
1920年 | 大正9年 | 建碑除幕式。浄念寺境内に「松應斎家建巧宗師之碑」「古流家元松應斎代々之碑」を建てる。 | |
1932年 | 昭和7年 | 5月 | 七世家元千羽理君引退。その孫薫、八世家元千羽理君を継承。 |
1941年 | 昭和16年 | 9月 | 古流協会設立。初代池田理英、初代宇田川理翁、初代熊井理総、松井理玉、二世千羽理君、岩村桃谷等が中心発起人となり、全国華道古流協会を設立。 |
1946年 | 昭和21年 | 4月 | 戦後初めて幹部会召集。研究会を再開。 |
1947年 | 昭和21年 | 10月 | 戦後第一回の古流生花展を東京美術倶楽部で開催。 |
1950年 | 昭和25年 | 華道文化会館(後の古流会館)落成。 | |
1951年 | 昭和26年 | 支部制度発足。横浜、水戸、土浦、宇都宮、行田、草加、高田、庄内。 | |
1960年 | 昭和35年 | 8月 | 会機関誌『近代いけばな』(現:『松應』)創刊。 |
1961年 | 昭和36年 | 10月 |
古流松應会創立50周年記念式典を日活ホテルで行う。 |
3月 | 八世家元千羽理君引退。長男靖夫が九世家元を継承。 | ||
1964年 | 昭和39年 | 8月 | 外部で初の「いけばな講習会」を開催。毎年夏の定例行事となる。 |
1965年 | 昭和40年 | 9月 | 「古流松應会展」を三越百貨店池袋店において開催。 |
1966年 | 昭和41年 | 2月 | 「古流協会展」が銀座松屋で開催される。以後、毎年開催。 |
4月 | 「第1回古流伝統生花展」が開催。以後、定例行事となる。 | ||
4月 | 旧古流華道会館に代わり、新たに古流会館が開館。 | ||
1967年 | 昭和42年 | 6月 | 「千羽理芳いけばな展」を銀座松屋で開催。 |
11月 | 古流会館において「松應会社中展」開催。以後、現在に至るまで定例行事となる。 | ||
1971年 | 昭和46年 | 9月 | 古流松應会創立60周年記念花展を銀座松屋で開催。 |
12月 | 「中華民国建国60周年記念挿花芸術綜合展」に参加。台北国立歴史博物館。 | ||
1973年 | 昭和48年 |
1月 | 三越横浜店の開店に際して「新春いけばな展」を10日間にわたって開催。 |
1976年 | 昭和51年 | 5月 | 「古流松應会展」を西武百貨店において開催。延べ650瓶出品。 |
1979年 | 昭和54年 | 千羽理芳著『いけばなの発想』(創元社)刊行。 | |
1980年 | 昭和55年 | 千羽理芳著『古流四季の花』(小学館)刊行。 | |
1981年 | 昭和56年 | 5月 |
I.I.いけばな世界大会においてデモンストレーションを行う。ホテル・オークラ。 |
千羽理芳著『古流の生花上下』(主婦の友社)刊行。 | |||
1983年 | 昭和58年 | 11月 | 会機関誌『古流松應会』を改め『松應』とし、季刊になる。 |
1985年 | 昭和60年 | 4月 | I.I.第10回北米大会(ニューオリンズ)に家元招聘される。 |
5月 | I.I.香港支部に家元招聘される。 | ||
1986年 | 昭和61年 | 4月 | I.I.ワシントン支部より家元招聘される。 |
5月 | 英国王室のダイアナ妃、東京赤坂の迎賓館和風別館に於いて六流(池坊、小原流、清風瓶華、草月流、龍生派、古流松應会)のいけばなを御覧になる。 | ||
9月 | I.I.台北支部より家元招聘される。 | ||
10月 | 第5回I.I.世界大会において、家元出品、及びワークショップ。京都国際会議所。 | ||
1990年 | 平成2年 | 7月 | 家元、「EXPO‘90国際華と緑の博覧会」において利島のサクユリをいける。 |
1991年 | 平成3年 | 2月 | 「世界らん展日本大賞‘91」に家元、大作を展示。東京ドーム。以後毎年出品。 |
10月 | 第6回I.I.いけばな世界大会においてデモンストレーションを行う。NHKホール。 | ||
11月 | 古流松應会80周年記念花展「水を得た 花たち」開催。 銀座松屋。 | ||
1992年 | 平成4年 | 5月 | I.I.ヨーロッパ大会(オランダ・ルンテルン)に招聘される。 |
11月 | I.I.アジア大会(香港)に招聘される。 | ||
1995年 | 平成7年 | 10月 | 特別展「花」において花衣桁を展示。東京国立博物館。 |
11月 | 「世界のフラワー・アーティスト千羽理芳」刊行記念祝賀会。 | ||
1996年 | 平成8年 | 10月 | 第7回I.I.世界大会においてデモンストレーションを行う。名古屋国際会議場。 |
1998年 | 平成10年 | 10月 | 「古流の傳花」婦人画報社 刊行 |
10月 | 第7回I.I.北米大会(カナダ・オタワ)に招聘される。 | ||
1999年 | 平成11年 | 11月 | 家元千羽理芳 藍綬褒章を授章。 |
2001年 | 平成13年 | 3月 | 古流松應会90周年記念祝賀会をホテルオークラにて開催。 |
11月 | 「花の引力」古流松應会90周年記念花展を銀座松屋にて開催 |